認識は現実へ

そうみなされているということは
その社会においてそういう存在であってもいいという意味だ
元からそういうつもりであったら、願ったり叶ったりだし
そうでなかったとしても、そのストレスからそうなってしまう
どっちにしろ大きな波としての認識は現実を変える
本当に嫌ならば認めてはいけない
許してはいけない
そう認識してはいけない
運動家がそれをやってしまうのは自分の存在を否定することか
それとももともとそれが狙いか