2015さらにまとめ

負の属性とは勘違い、そしてあるからには道具にするしかない、場合によっては最適な感情を生み出すんだ。 その触媒を知性と呼ぶ。 概念というものはすべて使うべきものだ。 負に走り出せば容易に正帰還に入ってしまう。 暫定的に定義することは、武器の形を定める便宜だ。 他人は利己的であり、自分も利己的であることを覚えておかなければならない、憎むくらいならあきらめろ。 怒りも関係性もまた便宜だ。 一つのことに集中してはならない、視野狭窄のハイリスク群だ、余裕をもって一つ一つを丁寧に味わうんだ。 得を手放してはならない、みんなそれを妬んでいるんだ。むしろ真に彼らのために最大限それを利用してやるんだ。 人生を、医者を演じること。「私」はそこにいないのだから、うまくやるしかないんだ。 その中で人体に任せて無心に手術をする。 その結果として美しさがそこに発現する。 その満足のためにやるんだ、時間を金に換える労働の中で、崇高なのはその瞬間なんだ。 全ては日本の神々のため、これがあるからこそ日本人は頑張れる、日本の優位性とはここにある。


死を考えると人生は短く感じるが、その時間のあまりに長く感じることを知ると要らぬ恐怖だと実感する。 こんな風にしている自分もすぐに越える。哲学含めすべての思考は自己否定に終わらなければ嘘だ。それだけのことなんだ。数ある思考の一つに過ぎない。 偶発的な機会が取れる範囲に来たら確実につかむ準備をしておくこと。それが自己否定、つまり止揚の糧となる。揺れ動く無限の肥大化の中からその全体の自己否定という形で抜け出すんだ。 言語と時代と運命に規定された思考の集合体たる私はいつか永遠と混沌に帰すのか、不知故の幻想なのか、人生に悔いがなければ生に対する執着が薄れるというのも現実だろう。関係性が苦しくなれば死も近く感ずるものだろう。 不安というのは9割実現しない。語ることは私を配る作業ではないか。決められた人生でもなお、否、だからこそ美しい。これこそが絶対的な美しさであり、真も善も実は相対的に過ぎず、汚されてしまう。そこに自由意志があるから怖くなる。それはいわゆるエラーなんだ。触るならば華麗に戯れ遊ぶべきものだ。 そもそも社会とは人類が生き残る手段でしかなく、人類の運命の中で日常を過ごし、それを思い出すために人は空を見上げる。人類の存続も一つの過程でしかなく、絶対的価値などない。
結局全部人間の運命的生理学的変化のせいであり、戦いが好きな種族の無償の遊戯の中でいかに楽しむかに限る。無限のゲームのなかでいいものを探し出し日常の中の美しさを感じるんだ。
 正帰還で肥大化する化け物で人を管理する輩に、バカ正直に取り合うのは考えることの放棄だ、だから詩人は狡猾に騙される。知らない誰かに、だからこそ利用されるんだ。 うるせえばかの一言が選択肢になければ搾取される。 そうしないといきれない人間がいて、それで生きていけるのはそれゆえだ。自尊心を食い物にして、だからこそこちらからつぶせばいい。そこが弱点なんだ。萎縮だけはしちゃいけない。無限に湧き出る欲望を、どれだけ自己否定しても残る自尊心を満足させてやるために。ゲームを消去法で選べ、全てのゲームなんて始めることすらできない。己が正義を貫くのだ。迷ったら手放せ。自分への裏切りをわざわざ生む必要はない。ポジティブに考えることこそが一番の薬だ。施して対価を求めないことが結局本当の喜びであり、わざと騙され続ける人が最も生を楽しむ。 仕方ない圧力に押され妥協しているように見えて裏から見ると心臓をわしづかみにするようなしたたかさが。 どんな環境、状況でもいかに楽しみ学ぶかを考え心臓を掴む。それを学びと呼ぶ。そうして今を生き、今納得できる決断をすれば、自分の納得できる環境に自分を置くことにつながる。 今青春をしよう、何かができなかった過去はそれによってしか救われない。 自由の中でゲームを次々して、高みに到達するんだ。決断を迫られているようではすでに負けている、選択はさせるものだ。勝負に勝つ必要などなく、常勝の倫理こそが環境を良くコントロールする。 通る善行でなければそれは自己満足に他人を巻き込んでいるに過ぎないんだ。 全人的な愉悦に基づく信念と、それを共に持つ仲間がいれば人は愉悦におぼれて生き、そしてそのために死んでいける、それが人生の一要素、一つのゲーム、全てを愉悦のための戦略道具として、人生はいつか必ず完成させなければならない時が来る、だからこそ走れる、できもしない完璧を目指して遅れを取っている自分が気持ちいいんだ。全てがよくあるようにパズルのピースを一つ一つ丁寧にはめていくんだ。 それができない内にその範疇に手を出すんじゃない。 幸せに日常を送るために。