実感として少人数組織 凛として時雨

やはり組織は少人数で無いと個人福祉最大限の集合としての社会福祉の実現は難しい
なーんて思う事が最近多い
どうしても形式上の組織の中に変なクラスタができちゃうんだよね
それが自然だったりするわけだけれども
その中で知識が欠如している個体がいたりするともう不可能となってしまうわけで
要は個人の問題か組織の問題か、それは勿論人数だけじゃなくて構成する全ての要因による
まぁ、究極的に言ってしまえば二人なんだよね
それが形式上の話で言うと婚姻関係なわけで
この論調でいくと結婚相手なんて誰でもいいってことになっちまうな
それも実感と違うわけで
ところで実感と論理のズレってのは
個人側、実感側の知識の欠如か論理側の不完全性に起因するわけで
まぁ、当然誰でもいいなんて思いたくないわけで
星の王子様風に言うと、一緒の時間を費やした分だけ他人は大事な人に変化するわけで
だったら一緒に時間過ごせば誰でもいいのかっていうのはちょっと誤解で
そもそもそれだけの期間を一緒に過ごせたってことに意味があるんじゃないかな
なんて思ったりするんだ
でもそれって恋愛論で結婚とはまた別問題なのかな
まぁ結婚なんて形式の話だからいいのか?
ん? でも元は形式上の組織の話してたよな
あぁ、そうか形式上で婚姻関係ってのは個人と個人、一対一の関係がそのまま全てだから、上手くいくかいかないかってのはAll or Noneで語れるわけで、その過程としては星の王子万歳ってことだ
おk


ってかだーっと書いたけど
実感と論理のズレの件イケテルナ(自画自賛


安楽死問題調べてなかったら出てこなかった言葉だぜこれ
哲学史のおさらいにもなって、ソクラテス辺りとかデカルト辺りとかに影響受けて西田幾多郎にたどり着いた辺りも必然性が垣間見えたし
まぁ、まともに探し続けてれば出会うべきものには出会えるってことよね
やっぱルースな感じの縛りが一番だな
まぁ、俺の受け取り方が、例の鬱癖によってねじれてるだけで大体がそういう感じなわけだ
自分で自分縛ってるだけなわけだ
どーすっかなこの癖
自覚してるあたりからすると後一歩なはずなんだけど
要はこの鬱癖も知識不足のはずなんだよ
俺には論理療法効くぜってことだよ
まぁ、それは論理によって自己催眠に持ってかれるマインドコントロールにかかりやすいってことだけど
まぁ、色々滑り止め的なのとか普段から注意とかしてるからおkだろう
とりあえず「みんな死ねばいいのに」→「社会を狂わす奴社会的に抹殺されればいいのに」って思うようになったのはでかいだろう

さらっとアレなこと書いたのでゆるい絵でごまかしておく