西田まとめ

0.
時代の意識は個の内へ、主体のない近代化の穴をうめるため、独我論へ、そこへの「経験が個を作る
なぜ問うか、経験とは、哲学とは人が生きるに要する、内的生命の知的自覚のために。世界は観察の対象ではなくその中で行為する世界
哲学とは生きる事に密接、いかに真に生きられるか
にはじまり、問い続ける事、西洋倫理学は自己の脚を忘れた、成分分析ではなく自ら確かめ追求する学を
悲哀と真に生きる事の問が重なった時、哲学は自己矛盾より始まる、驚きでなく悲哀、激しい情動ではなく、人間の生そのものの動かし難い性格、世界との共振が感じられる独特の静かさ
喜びも悲しみも届かない彼方、内的生命はこの活動

1.
虚幻の泡の生涯
教師を夢見師範学校へ、チフスで退校、2年の塾の後、専門学校へ
数学か哲学か、最も影響を受けた尊師の勧めを振り切り、無味乾燥な数学に一生を託す気にはなれなかった、論理のみならず想像力のいる、自らの能力を疑いつつも哲学の道
有翼の四高、校風の変化、先鋭化、落第、転向、自主退学
高校中退だから選科、隅に小さくなって過ごした、ケーベルは尊敬したが傾向を異にした、古典からの教養と主体的恣意
修了、翌年教諭に、学内対立で失職、尊師により四高教授に
父との断絶
四高から尊師を通じて禅へ、同級生鈴木タイセツと交流
「徐々に深まる」に関心を哲学に、尊師の配慮で学の道に穴埋め倫理助教授、宗教教授、14年哲学教授
理性では理解できる、しかし心はどうもできない、学に力を注いだ、反らそうとするではなく、向き合おうと
批判を取り込み糧に発展を遂げる力強さが西田の思索にはあった、それが魅力かもしれない
体系的ではなかった、自覚もしていた、鉱脈を探し掘り続けるコウフ、研磨したり整理する思想家
批判が多いのは他を刺激して止まなかったから

2.根源に向かって(純粋経験
純粋経験こそ実在(真にあるもの
言語(名前)を介せず裸のまま私を満たした状態こそ経験
自己の細工を捨てて、事実を事実に従って知る、疑いうるだけ疑って仮定を去った直接知識
主観客観という枠組みの中で認識しては実相を捉えぬのでは
妥当性を十分吟味せず前提としたものを問い直しどこまでも肉薄する徹底性は生涯のモットー、直接で根本な視点から
既に明らかな物に満足せず、自ら思索する
古典に深く沈潜しながら生きて出なければいけない
「私が」「外の」=主客の構図の上の経験、無意識に吟味してない仮定
構図が描かれる前が経験そのまま、その現実こそ経験の最醇
「内なる心」と「物」を独立に考え、外部世界を事実と捉えるのは独断、反省による
意識は意識で、事実は外の世界、我々は各々受け取ってる、それでは意識は表象にすぎない、すれば意識内容は対象そのものでない、その心身問題で身動きが取れなくなる、主客二元論ではどのように捉えるかが問題となる
物は最初から我々にある感じをもたらすものとして現出してる、二世界に隔たりはない、意識は二次的な思いの要求。我を忘れて、にこそ真実在が現出する、純物質はリアリティの解体、具体的事実から離れた抽象概念
また単に知覚・知識の対象としてのみでなく、情意を与えるものである、実在は知情意の一、経験は常に知と情意が関与する、知と情意は元々切り離せない
命題(真偽が問われる)・言語の前の状態が直接経験
言葉にして明確な輪郭を与えるが、されない経験は不確かなまま忘れられそうだが、表現は実際の情意・経験の一部でしかない、病理だけでオペ全体は見えない、無限の距離、抽象化がかならず伴う
豊かさをそのまま保持した事柄全体が事実そのまま、純粋経験
主体を設定した瞬間断面と化す
ベルクンソンの直観、外から捉える分析でなく、中に入り込んで捉えようとすること、翻訳でなく共感、物自身になって見る、考える

3.生命の表現―芸術
純粋経験のモデルを芸術に求める、思想を常に具体に引き戻して理解する
創作の例は西田思想の絶好の手掛
真の善とは真の自己を知ることに尽き、それが主客合一で可能、名誉や巧拙からまったく自由に行為そのものに没入した境地、それが宗教道徳美術が目指すべき極意
美は快楽を与える、高潔な無我の境地でのみ成立する、一種の解脱として宗教と同一の性格だ
さらに芸術の意味は内面的生命の発露、心底に動くものを表面化し具体的形を与えること、無限に発展する連続的、創造的な生命の流れを
哲学が内的生命の知的自覚ならば芸術は生命の光をそのまま凝固させたもの
事象と感動が一つになった状態を直接に言葉に写すのが写生、人生の表現
創作は主客合一の境での経験のみでなく、内的生命の表現。切掛はディルタイのあらゆる精神活動を感情に満ちた自身から変化しゆく動的働きの理解、感情の大きな緊張は自ら自己を外に表現する、自己の像を外に形作る、狂人の幻影もまた
感情は意識現象の根底にあり支える、意識作用の根本条件で結合点、知も感情から
先験的、経験に先立ちそれを可能にするもの、情緒では過去の記憶も現在の感覚も表出運動も一でなければならず、そこで現在の意識の奥底に現在を超越した深い意識の流れに接する。においにより思い出、においで喚起されたのではなく、においそのもののうちに思い出をかぎ、においが私にとって全て。意識の流れたる過去の出来事、現在と過去の直接結合たる生命の流れが自覚的意識の根底にある。それはまた感覚作用が内面的に結び付いた場で、他者の意識に触れうるような場。この意識の流れを先験的感情、内的生命と結び付く
創作とは先験的感情の表出に他ならない。絶対意志の立場、純粋視覚の立場に立つとき、感情が物の内に映され生命に満たされる、満たされた芸術的対象が手を動かせる
感情の深い内容は分析でなく共に動くことによってのみ把握される
純粋視覚―フィードラー、日本の芸術、美学の軸
現実は固定せず、意識のプロセスの内に変化して止まない、この現実を所有する方法、言葉と感覚の2つ、言葉は変化して止まない現実に明確な形を与え、決定的な変容を加え、超えがたい距離を作る
感覚の中で所有する方法は変容を加えない、感覚はすぐ消え去る。一切の概念や他の感覚の混入を避けて集中する、純粋に見るのに撤するなら、目が意識に提供するものをより高度に発展させる可能性が生まれる、手を動かす、新しいものが生まれる、不十分に見えるが目にできないこと、きえゆく状態に明確な形を与える。創作は目を超えた、しかし目のプロセスの発展
西田、全てはそれ自身のなかに発展の動力を持ち事故展開していく、創造的体系。知覚、経験には受動的作用でなく無限の発展

4.論理化を目指して―場所
思索に最大の意味を持ったのは、ヨーロッパの学界の動向を即座に詳細に知り得る環境、ベルクソンと新カント学派によって純粋経験が見直された、善の研究の立場は意識の立場で、心理主義的とも考えられる、非難されても仕方ない
心理主義、経験に基づき真理を明らかにする立場。純論理派、真理は個人の意識内容を超えた一般性あるもの。心理主義的性格の払拭が課題となった
与えられた現実、かつて純粋経験と呼ばれたもの、対象化できぬ自己、反省し尽くせぬ直接の所与、場所。我とは点でなく円、物でなく場所でなければならぬ
心理主義の克服のために思想の論理化を、直接与えられる現実が単に実在でなく、同時に知を成り立たせると明らかにするという課題。手がかりはヒュポケイメノン
実体、真に存在するものは本質と一般と類と基体に分類、基体は第一実体、これと示し得る特定の個物、常に判断の主語
述語にならない基体は限りなき術語の統一、無限なる判断を統一するもの、判断以上でなければ
個物の根底に常に非合理的なものの直覚があり、判断の根底には常に判断が到達できないものがあり、個体は直覚を概念化して初めて考えられる
アリストテレスの主語によって指示される方向から術語の方向に見いだされる
判断は根本において、主語と術語、あるいは特殊と一般との包摂関係と考えられ、術語方向に押し進めれば無限大の術語、超越的述語面へ至る、これこそ限りなき術語の統一、全判断の基礎
なぜ反省し尽くせぬ自己が場所と呼ばれるか、この自己が一つの対象として把握されないから、一つの概念で言い表わせない
反省し尽くせぬ真の我は論理的規定のできない、むしろ規定を可能にする場所、というのが根本、如何なる意味でも有と規定されず、ただ場所としてのみ把握される、ある意味無、論理的規定としての無は一種の有、場所は有無を包んだもの、有無の対立を成立させる無の場所、あらゆる判断を超えた直覚的なものはいかに判断に結び付くか、手掛かりは自覚、思惟が純粋経験に納まり切らない
自覚は己への反省であり、直観としての性格をもつ、自己の中に自己を写す(反省)が純粋経験のように無限で、かつ動的な発展でもあるから
真の我が根本で反省である、ただ我が我をでなく、それ自身は無で、形なきが、形あるものとして自己を自己のなかに投影する意味で
無の場所は単に無でなく、自身に投影する、無は鏡、映すもの=映される場所。自覚を通して投影された形が判断、知
働くものから見るもの―直観―へ、場所により主意主義から直観主義
自覚は意志の体験で、働く我こそ真の我→直観を見ること、映すことでなく、精神的なものが自己自身を発展する。直観は遺志の形で理解し得る→基体、働くものの背後に働かないもの、意志の背後にそれを超越した直覚的ものが認められ、それが自己の中に自己を映す
見ることは直覚的もの、無の場所が自己に自己を映すこと、有るものは無の場所が自己自身の中に投影した形(影)
カントに典型的なように、近代哲学は自己を基点として全てが主観と主体で考えられていた、それは人間含む自然を操作、利用の対象とした。西田の自己を場所とする思想は違う人間理解、認識行為は基点でなく場所のなかで生起する一出来事。無は存在、実体中心の存在を存在としてその全体において考察する西洋に対して、無の場所から存在の意味を考えようとした。

5.批判を超えて―世界と歴史
西田は思想の座標軸
批判を発展に、大きな課題こそ大きな発展に、この力強さ
包摂関係を述語に→最後の意識面、場所、真の無の場所、心身脱落して絶対無の意識に合一する、見る見られるなく、色即是空、単なる無でなく自己の中に自己を映す鏡、映すという所に知が成立する根拠を求めた
マルキスト「無は論理でない、存在そのものでなく、ただ存在の論理的意義のみだから」 西田「無理なかろう、まだプラクシス中心に書いてない。マルキストは一面的で徹底しない所がある。取るべきはどこまでも取りたいが」
田辺「絶対無の自覚と呼ぶ宗教的体験から哲学原理として全存在を理解しようとした、発出論、一者からの流出で全ての成立を説明しようとする、哲学の否定、与えられたものでなく求められるもの、要請される理念として立てるべきではないか。現実の非合理性も無視されてる」
それに答えて、行為、身体、社会、歴史、そこにある非合理性に積極的に問題にするように
行為により意識を超えて自己自身の内容を外界に表現し、表現された自己を通してより深く自己を理解し、より深い自覚が成立する、行為的自己を人間存在の根底に
歴史は、行為を通して内を外となして自己を実現し、そこに自己自身を見出だす行為的自己の自己限定を通して成立する。歴史は行為するものを突き動かす何処までも省みれない自己の表現として最初から非合理を内包している
歴史は個物と環境の相互限定により成立する弁証法が、それが成立する歴史的世界が西田思索に広がりを与えた
最根本からという姿勢はかわらず、意識・自己から世界へ変化した、意識現象でなく、現実世界、人格的行動を包み、我々がそこで人格的に行動する世界こそ真実在、世界の論理的構造をめぐって思索は展開された
これは行為する個物を無視するものでなく、むしろそこに目を向けていた、認識の主体として自己でなく、現実世界で行為する自己への注目、行為的直観、主知からの
しかし行為する自己に限定されず、自己が真にそこから生まれ死にゆく自己を限定する現実世界が如何なるものか、人格的に行為する世界、私と汝が相対し相互限定しあう。世界歴史的世界は客が主と限定しあう。行為は意志に基づくが、同時に環境が環境自身を限定する形成作用とも考えられる。単なる自然ね環境でなく、人格的な行為を迫る客観的世界、ヘーゲルの客観的精神の世界、共同的精神の世界。世界から発現する行為が世界を作っていく、我々を通して世界が自身を完成してゆく、これが社会的・歴史的世界、最も具体的な真実在
現実世界の論理的構造の解明で浮かび上がった弁証法的一般者の概念。絶対無の自己限定・無の一般者の自己限定は弁証法的一般者の自己限定へと。これは現実世界が個物の個物自身の内からの限定(個物的限定)と環境(一般者)による自己限定(一般的限定)、この絶対に対立するものの自己同一として現実世界が捉えられることに関わる
一方、個物は時の流れの中で(直線的)内的統一を保ちつつ自己限定し、一般者に包まれ、時空の中で(円環)的外から限定される。この2限定は何処までも相反する。個物的限定がそのまま一般的限定にはならないが、私が汝に相対し関わり合う時、個物の限定が具体化すれば限定は円環的になる。逆に一般による個物の限定が具体化すれば個物的限定に関わる、直線的になる。これが対立しながら同時に一つである故に弁証法的一般者と表現された
現実世界は絶対に相反する者の自己同一、現実世界が無限な弁証法的過程であるとともに、内容が常に一全体として与えられるから
現実世界が成立する現在は過去未来ね弁証法的一点でなく、無限の過去未来を含み、具体的中身として現在を形作ってる、無限なる世界の重畳、同時に現在が自身の内に矛盾を内包しているってこと、時代は常に自己矛盾を含み、故に自身の中から自身を越えていく
無限な弁証法的過程で、世界の無限な重畳をなすものとして歴史的実在の世界は絶対に矛盾するものの同一である、絶対矛盾的自己同一、場所への批判から展開された後期西田の一結実

6.具体性の思索、行為と身体
徹底性は難解さ、前人未踏では手段そのものを作り出さねば
林達夫「考え抜いて書く完結した思想体系でなく書きながら考えるエッセー」取り敢えず形を刻んでいく
我々の世界そのものが思索の対象であった、極日常の経験、日常の世界を離れて哲学は存在しない、それが何か何処までも深く掴もうとした、先入観を除き、そのものに立ち返る、それが直接な立場に立つ意味
行為的直観も日常が何かを深く掴む試み、認識と行為が切り離し得ず、結び付いている、人間の本質的ありよう、相反し矛盾的関係にもかかわらず
コギトエルゴスムでなく、私が行為する故に私がある、どこまでも肉体による行為で、意識以前に身体、意識はコントローラでなく身体的存在の活動の一側面、表現作用的身体、歴史的身体。物がクオリア的に迫ってくる
行為は物を作るポイエシス、身体を通して自己を表現する、そして制作物は表現的なものとして前に立ち現れる、なお不十分なものとして手を加える必要性を意識させる
我々は行為により物を見、限定しあう
制作は単に刺激への反応でなく歴史を背景にもつ、人は何処までも無限に深い歴史的バラスト、過去の重荷を脱することはできない
物を作り行為するのも課題を歴史から与えられる、これは行為を通して歴史、世界が自身を形成するってこと。歴史的課題を意識しながら物を作る行為が内に閉じこもった行為でなく、歴史的世界が自身を作っていく手段で、我々は歴史的世界の創造的要素
行為的直観は全ての経験的知識の基と捉える、認識は一実践で、制作である。実在を行為的関連のなかで、制作という場に於いてリアルに掴む事、その把握を通して実在が生命としてリアルに顕現すること、知識の客観性はそこに依拠する。概念的把握も具体的に把握すること、ポイエシスにより物を知ることを通して初めて可能となる

7.真の自己へ―宗教
宗教の問題は西田思想全体の一軸であった
逆対応、平常底―生きるということに直接関わる事柄
宗教の究極に見ていたのはごく普通の行為、生の営み
宗教的意識は全ての人の心の底に潜む生命の根本的事実、ここに西田な宗教理解の核心がある、哲学と宗教は共通地盤、哲学も宗教も全自己の立場に立つことが求められ、世界のなかで制作する自己であることが。哲学はそこから世界を問題にし、宗教は何処までも自己に徹する
宗教は特殊の人の専有ではない。神秘的直観ではない、そんなのは無用の長物、日常の根底たる事実でなくては
全ての人の心の底にひそむもの、必ずしも顕になっていない、自己そのものから目を反らして生きている、ではいつ宗教的意識が生まれるか、深い自己矛盾―永遠の死の自覚―を意識した時、自己の永遠の無
親鸞「人は限りない煩悩の愚かな存在」との自覚、絶望へと―どんな修業をしても―これが永遠の死を知ること、徹底した悪の自覚と絶望、グトクの号こそ親鸞の人となり、真宗の教義、宗教そのもの
自己の無を自覚する事が同時に自己存在の根本的理由であるゆえ、深い自己矛盾、何処までも背き逃げる我々の自己を何処までも追い包む無限の慈悲、これを哀れむ阿弥陀仏が修行しても悟れない悪人こそ救おうとするものの呼び声を聞く
宗教とは自己のそこからそこへという所を把握すること、矛盾の自覚、自己の死、無を意識した時にこそ自己を支えるものに出会うという矛盾の自覚
一般的に絶対的存在は自己の外と言われるが、超越的最高善の神は抽象に過ぎない、自己の自覚に関わりない、自己を超えたものに出会い、超越的他者でなく真の自己を見出だす、この矛盾こそ宗教が成り立つ場所
自己と自己を超えたものの関係は逆対応、無との断絶と自己が徹底した無であること、自己の死を自覚し自己を生かすものに出会う、自己の無を超える、このパラドックスを逆対応と呼ぶ、直接向き合う時でなく、最も遠い時、無であるとき、絶対無限、個の極限に出会う、親鸞は罪悪を背負った自己を何処までも突き詰め、本願に出会うことを逆対応と呼び、自己の立場の根本的転換を意味する、死を知ることで死を超え、永遠の生命を得る、最初から変わることなくあり続けていた本来の自己に出会う、元の自己に帰る、平常底、日常を日常として行う在り方、生命の根本事実への眼差しを欠いた状態でなく、脱却の絶え間ない努力を積み重ねての日常、そうやって執着を取り除く
改めて全く同様の日常を生きる事

8.東洋と西洋のはざま―新たに創造に向かって
西田の周囲はヨーロッパへの留学を糧に多くの仕事を成し遂げた
西田も望んだ、直接触れなかったが、同時代の西洋哲学の動向にたいして極めて敏感で、独自の思想を紡ぎだした、これを可能にしたのは東洋思想の伝統、狭間に立ち、西洋哲学を相対化し、問題点を掘り出した、その眼差しは東洋の思想にも向いていた、東洋と西洋のはざまという緊張を孕んだ場にたちえた
西洋文化は有を実在の根底とし、東洋は無、インドは知的無、中国は行的無、日本は情的無
現在は絶対無の限定、絶対無には深い内的生命、無限の生命の流れがある、場所が自己の中に自己を映すことが内的生命の自己表現、生命が自身を限定すること、形なきものの形、声なきものの声は内的生命の自己限定の影、それが無限なのは内的生命が知識の限界を越えたもの、我々を根底から動かすくらい運命だから、これを表現しようとしたのが日本文化の特徴、ときの如く形なき統一、象徴的、生成的、生命の如く発展的、種々の形を受容し、一種の形を与える、固定した形をもたず常に生成し、しかしその統一を保ったもの
我々はどこまでも世界文化を吸収し発展せねば、しかしただ西洋を消化吸収するでなく、我々をはぐくんだ東洋を背景に新しい世界的文化を創造せねば。偏狭なナショナリズムでなく
それぞれ国家は密接な関わりのなかでのみ存在しうる、自らの特殊性に閉じこもらず、世界へ自己を開き、世界文化の発展に寄与することが求められる
日本の精神的伝統最大の弱点は、厳密な学問的方法の上に理論として構築されなかった点、克服のためには自身を空間的鏡に映し出す、異質な文化との対話を通して不十分性をあからかにすること、自己批評を求めた。精神は伝統の中の遺物でなく、生きて働く精神を、死して後生きるということ
排他の特殊でなく一般の特殊、互いに影響を与えあうような、西洋優位でなく東洋優位でなく、相互理解に消極的な相対主義でもなく
日本が中心として自己同一を保ってきた皇道は世界的とならなければならない、排他的民族主義からの国家の結合は帝国主義、侵略主義、民族利己主義の産物である
東洋思想は体験以上のものに発展しなかった、仏教思想の限界は意識的自己の問題にとどまり、制作的自己に至らなかった、体験にとどまり、物事の論理には発展しなかった
東洋は意識としての自己を対象とし、具体的実在の論理でありえなかった、西洋は自己を排除した知で、歴史的事物の論理たりえなかった、歴史的実在の世界の論理は作られたものから作るものへとして世界に関わっているその全関連を把握するもの、徹底的実証主義
伝統の再生と飛躍、単純な対置が力を失うのが西田の思索の場

9.西田哲学の位置と可能性
京都学派は自ら思索する、西田の影響を受けた上で批判的に受け止め展開していった、相互に。批判的な人も含める、批判を原動力とし、思想を構築していった人々、批判を許す繋がりであった
プラトン『第七書簡』「他の学問のように言葉では語り得ない、生活を共にしながら直接話し合いを重ねるうちに突如飛び火によって点ぜられたように魂の内に生じ、それ自身が養い育てるもの」十分に自ら思惟して、飛び火する
世界哲学として、外を確保し内を相対化し、外からの光によって暗黙の前提を映し出し、問題をとらえなおす
西田がめざしたのは西洋で前提とされる人工的仮定を取り除くこと、知が働くとき、知が機能する枠組みが作られ、その中でのみ機能する、枠に気付くのは違う枠の知に出会ったとき、異なった文化、言語的背景だから西田は西洋を照らした、躊躇なき合意は枠の重なり
日本の伝統文化では無心、己を空しくすることが理想、これが外からの眼の基盤、純粋経験や場所が人工的仮定に光を当てた
外からの視点により自身の固定した思索の枠を動揺させ、創造する。パラダイム論争、何処までも直接な、最も根本的な立場から物を見、考えるために