「生と死」集

現実的には覚悟の問題
いかに身近に感じ、それに臨む姿勢を作るか


精神的には恐怖の問題
それも結局覚悟につながるのだけれど


平和ボケしてちゃ、逆に死が怖くなる
死が関係することに対して冷静な思考・対処ができなくなる
冷静になれる下地を作ること


あと恐怖とかも「使える」ってこと
結局肉体の問題なんだよね


それが自然なことであり、むしろいないほうが当然
それもね
いつか死ぬのが当然であることは確かだけれど


死を「覚えた」のはいつなんだろうか
幼稚園や小学校や
それまでは自分は何者だったか
知ることで人は別物になる
それは死だけではない
毎日毎日別物になっている


数々の病気を勉強していると、自分が生きてるのが不思議
致死的な病気とか、事故とか、自殺とか
ただ生きる確率と死ぬ確率があって、死ぬ確率の方に入ってないだけなんだよね。 まぁ明日死ぬかもだけど


明日死んでも公開しないようにって言うけど
死んだ後に公開する意識に類するものがあるかどうかを考えてるのだろうか


永遠に死の瞬間を生きる
そこにたどり着けない
無限に近づき続ける


繰り返す
同じ人生を
違う道で


しかし意識がどうのこうのなんて事にとらわれてたら、死の真の姿ってのは見えてこないんだろうな
きっとそれはがっかりするでもなく、驚くでもなく、喜ぶでもなく、そういうようなものなんだろうな
まぁどうあろうと結局、絶対受け入れなければならないであろう事だからな
それにどんな価値付けがなされるかはわからないけれども


そもそも死がこんなにも恐怖の対象となり
忌むべきであり
避けるべきであり
自殺は止めるべきものであるとなされるのはどういう所から来ているんだろうか


今3歳とかの事をまったく覚えていないことを考えると
過去なんてその程度のものなのかもしれない


自殺
殺し合い
戦争
領土争い


なぜ人は自分が生きていないような、自分の孫すら生きていないような未来の人類の事を思うのか
その大元には何があるのか
民族のために、国のために。 それは今生きているこの体のための事は大いに含まれているだろう
全世界の事を思う、未来のことを思う
そちらに身を置いてみる想像力だとか
そういうものだろうか
そういうものを対象に自分に対する見返りを求めてそういう行動をしているのかもしれない
人類繁栄のために
なぜ人類が繁栄しなければならないのか
人は体のためと、魂なるもののためと、両方に存在しているのかもしれない


人は意識を飛ばすたびに魂なるものが変わっているのかもしれない
だとすると体や記憶なんてものは大した意味をなさないかもしれない


宇宙・宇宙人への探求
ミクロへの探求


いかに考えないようにするか、ってアプローチは何か違う気もするし
かといって常に恐怖におびえているのも何か違う気もする


まぁ、死んでみりゃわかるんだろうけど(


アルツの幽霊
世界各地の幽霊
世界各地の宗教
その起源


ひょっとしたら日本では、何かのために死ねればそれでいい
そういう考えが多いのかもしれない
それは諦めの境地故かはわからないが
だから病死を少し嫌がる傾向にあるのかもしれない
よりよい死に方を探して生きているのかもしれない
だとしたら美しいな
でも病死も、事故死も、自殺ですら、誰かのためにはなっているわけで
もしかしたら医師の最大の役割はそこにあるのかもしれない
別に自殺推奨するわけではないけど、結果の話
理由付けとかそういうのって大事


結局「自分」なんてのは全て含めて環境が作った代物
ただそれだけ


自由意志への欲求
からの不安、期待


動物との違い
種族ごとの違い
人種の違い
なぜ子孫を残すか、遺伝子にプログラミングされているから
子を生んだら食われるとわかっていても子をうむ、いやもしかしたらわかっていないかもしれないが、そういうプログラムだからか
戦争、自分と似た遺伝子を残すため


「私」は全て物質か
記憶は物質だろう
認知症になった、その人の「私」は何でどこにある
多重人格、人格は物質か
子を残そう、自分が今死んでも代を続けようというのはプログラムか
そこから生まれる感情もプログラムか
外界の刺激に対する用意された反応か
なぜ人は自由意志を求める
求めない人もいる
子より自分を選ぶ人もいる、それはエラーか
種が滅ぶ運命ならそれもプログラムか
人はなぜ他の種も保存したがるか
それは己の種のためか


子供に幽霊を怖がらせることの意義
自分の子供に、自分の親の死を体験させる意義


抽象的に死を考えると恐怖の対象になる
具体的に考えるとその感情は和らぐものだ


全て遺伝子というのも偏っている
生への欲と死への欲、その大前提となるものに当然答えはある


人が後世に名を残したがるのはなぜか
せめてもの行動か
あるいは何か他の意義があっての事か


自殺する遺伝子について
アポトーシス
そうではない何かを意味するものか


人は連続性、自己同一性の断裂を恐怖している
それはいつ生まれたものか
自分が生まれ持ったものか
どうやって芽生えたものか
それは何を意味するか
死ではなく、たとえば記憶喪失とはどう違うのか、体の一部を失うこととはどう違うのか、認知症は、性格変化は


自分を自分たらしめている者は何だ
結局体しかないのかもしれない
そこにある連続性は体しかないんだ
だとしたらそれにしがみ付いているのもアホらしく思えてくるものだ


それが残っていることが、何か必然的なものによって意味を失うのであれば
計算して
惜しむな
ただ惜しむのはおろかだ


保守ってのは要はホメオスタシス
革新ってのはエントロピー
どっちが正しいなんてのは当然ないわけだ--根本的にはそんなもの何事にも無いが
両方あって当然
ないのがおかしい
でも時にどっちかしかないこともあるかもしれない
現実は、事象は波のように揺れている
だから前提をみつけないといけない


ただ一つ言える事は、宗教や哲学をやらない人間は、一人生を浪費するに至るだろう


人は忘れる
1歳のときのことを覚えている人間は多くないだろう
3歳のときのことをどれだけ覚えているだろう
小学生のころのことをどれだけおぼえているだろう
中学生のころは
3年前のことは
1年前のことは
一ヶ月前は
一週間前は
昨日は何をしていた
どれだけ思い出せる
それは本当に起きたことか?
そのままのことか?
この事実に覚える感情は恐怖だろうか
死とはそういう類のものだ
人は変化を記憶する
それは感情の動きと共に
変化がないと慣れ、忘れる対象となる
覚える対象とならない
死とは最も安定した状態である


平行世界を仮定して、無限にあるその中で自分が存在している世界はどれほどあるのか


予期不安は病気、というがね


"宇宙が永遠であろうとなかろうと、限りがあろうとなかろうと、生と老と病と死、愁い、悲しみ、苦しみ、悩みの火は、現に人の身の上に押し迫っている。人はまず、この迫っているものを払いのけるために、道を修めなければならない"


たとえば動物のちょっとした筋肉を抜いてきて食べるのと、自分が殺した動物をさばいて同じ筋肉を食べるのと、他人が殺したのを食べるのと、何か知らないけど死んでたのを食べるのと、どこがどう違うんだろうか


人生は意味を探し始めると途端に迷走しだす
自分が何をすると生きてるっていう実感を感じるかという観点
前者が頭の中で考えられた教義的なモノ
後者は活動によってもたらされるモノ
意味なんて何かを実行すれば脳が勝手にそこから引き出してくれる






名前なんて、顔なんて、体なんて、性格なんて、いいんだよ。 名声というのは目立ちたがりだ。 それこそ性格だ。 そういうことじゃないんだよ


これが語り継ぎたいことの中核なんだよ。 しかもそれ自体が空としての発展を続ける。 そこに、無限の次元の要素としているんだよ


だからその中で、瞬間的、感情的に死ぬのも悪くないかななんて思うわけだし、でもそれだけだとただの肉としての反応だけに思えるけど、そうじゃないんだよこれは。 それだけじゃないんだよ


あーなんかうまく言葉が出てこない。 それこそクラスタだ、その精神に皆が生きている。 そこに生きているんだ。 脈々と。 ウイルスが、遺伝情報がどうのこうのとかもあるかもしれないが、そういうのはおいといても、そこにあるんだ、その流れが。 だから今俺はこうしていられるんじゃないか


3年越しくらいでつながったぞ。 わかりやすく、強烈なところで言うと自分が死ぬとき誰が感情をもってくれるか。 そういう所から広げていく。 正の認識がつながる。 空間的に、時間的に。 絆が。 名声というのはそれ自体ではなく、その中に包含されるものとして。


つながった。 群れだ。 生と死は群れだ。 世の中は捨てたもんじゃない。 生きている時、終わるとき、その時々の仲間。 感情を共にする者たち。 たとえ少なくても、それは敵が強力で、数が多くても、いやむしろその方が、より強く共にできるものがある。


みんな最高だ! でも、いやだからこそやることはやるぞ! やっぱりそこには現実の土台があるんだ、その土台を壊す輩だけは許さない。 それだけは許さない。 でもその土台を壊そうとする人たちを巻き込めたら最高だよね、そういう人もいる


いやそれが理想だ。 でもそこにそういう土台があるからこそ、この流れに意味がある。 共存、全てが満足できるような共存。 全ての観点から土台がきちんとしていて、その上で発展できるような、それだ。 偏ってはいけない、どちらにもだ。 違って、それでいいんだ、それがベストなんだ


それを現実をさておき、他人をさておきやってるから崩壊するんだ。 明確でわかりやすいものにろくなものはない。 枝葉末端のことをまず理解するならそれでいいかもしれないが、原理原則はそれではいけない。 たとえ始めは違っていても、そのまま突き進んだら危険過ぎる


目の前の簡単なものに飛びつくな。 それは自らを滅ぼす。 安易なもの、それは正のものだけでなく、負のものもだ、そもそもそんな正負なんてないんだよ。 何を善しとするかなんて勝手な理屈だ。 最も確実なものだけを見つめる。 強烈なものに飛びつけば飛びつくほど見えなくなる。


でも見えなくなってもその力で上に飛べるんだけどね。 うむ、だから結局そのまま焦って何かを成そうとするのがまずいんだ。


そのままで突き進む無理やりな力が土台を壊す力になってしまうんだ。 自分の土台も、他の土台も。


俺は大昔にもいるし、未来にもいる。 でもだからこそ人類滅亡に、人は恐怖するわけだ。


文化の、時代の、歴史の、世界の、担い手は俺でお前で




ヤスパース
能動性の意識、自己が活動していると
単一性の意識、自分は一つと
同一性の意識、時間の変化でも自分は変わらないと
境界性の意識、外と対立するものとしての自分


作られたものを一度壊して、積み直す。 その作業を強いられたわけだが、だからこそそこで見えてきた、たくさんのありがたい物事。 今は親がいて、それを継いでいけること、それ自体がどうしようもなく最高なんだ

いわゆるエリート、優等生、そんな思想に染まっていたしな。 でもおかしな呪縛から解き放たれて、体験して、感じて、考えたこと。 おのおのの言葉の本当の意味を知る。 医学を学べて本当によかった。 正直俺はこれで十分だ。 後は生きて、表現しなければならない

理想論、抽象的な言葉遊び、そういう類のものに執心していた。 おそらくそれしか無かったからだろう。 教育のせいもある。 まぁでも結局変な教育から離れれば、むしろそんな教育を受けていたからこそわかることもある

いつまでだったか、親に縛られるとか、親と同じ道を行くとか、遺伝子に縛られてるとかいう発想もあって、とにかくそういうのが嫌いだった




たとえば犬なんかは、何者かが死ぬのを見て、どういう心持でいるのだろうか
死を知るのは死ぬときなんだ


まぁ何といったって救うのも救われるのも俺自身だし。 それだけだよね。 俺は今まで頑張った俺を救う


国試を終えて、老いだとか死だとかってのは救いなのかもしれないなと思い始めた俺がいる


でもそうするとまた色々恐怖になるわけで、どうしようもないね、今のままじゃ。 でもきっと今はそれでいい。 それがいい




死に触れよう。 ただただ恐怖するだけでなく、ただただ科学で分析するだけでなく。 全身全霊をかけて死に向かい合おう。 それをしないと狂った者に人生を狂わされる
伝統を、これまでの人の命の跡を、私のために、故人のために、そして子孫のために


骨が、血肉が日々入れ替わる。 神経も時に入れ替わる。 あるときは形を同じくして、あるときは形を変えて。 徐々に変わっていく
僕を僕たらしめるものが何なのか教えてよ
かつて神話が破られたように。 いつか自然科学が破られる日が来るのだろうか
だとしたら今自然科学を絶対崇拝して悩み苦しんでいるのはとんでもなく愚かしいことだよな。 それが発展のために必要なことだとはわかっていても、それをそうと感じなければいけない理由にはならない
じゃあ、神話の時代の人間が自然科学の時代を創造できたかというと、確信なんてできないわけで、って思うのは自然科学に”毒されている”からか
どれも無限にアレしてる遍く全ての世界からある方法で点を抽出してつなげただけだからな。 それは結局真の姿に近づくのだろうけど
結局人間の最大の関心は自分が何者か、って事なのかな。 俺は俺だ、ってそういうトートロジーのみが正しいのかもしれない
「言葉」ってのはそういうものかもね
のどもと過ぎれば熱さを忘れる。 夢だったのかもしれない
夢を、自分以外の人間が承認してしまったら、それは現実になってしまうよな
言葉はトートロジーのみが正しいなんて書いたが、トートロジーですら間違いを含んでいる。 正しいのは自己否定のみ。 他の否定は自の否定となり、それが愛であり、結びが根底にあり、前提にある。 言葉である以上、これを避けることはできない


性欲食欲睡眠欲をこえたとして 生存欲と知識欲は残る




いざ死ぬとわかっても人間なんも変わんねーぞ
漠然と生きてる時に感じる「死」の恐怖は過大評価だ
恐れることはないからやりたいように過ごしてみろ


お前が死ぬのが怖がるから脳がそれを止めているだけだ
普通人は死を恐れるべきなんだよ


死についてはそうなのかもわからんけどなんも変わらんのはガチだぞ
死はあれだな。ふわっふわしてて実感はないな確かに


お前死ぬ前になんかやりたいことないのか?


そうそれ。
俺も「どうせ死ぬならあいつに言いたいことぶっちゃけてやろう」
とか考えたりしたんだけどさ
人間死ぬとわかってもなんも変わんねーんだって。
言いたくてもなんか理性みたいななにかが優先される


まだ死を実感できてないのかもな


さっきもそれ言われたし実際そうなんだろうな
発狂とかもしてないし。時間が惜しいとか言う感覚はあるけど2chしてるしな


余命告知受けたことがあるけど、確かにダメージ受けるのは最初だけだな。
避けられない死がそこにあるんだと納得したら、あとはけっこうフラットな気分になる。
だって騒いでも暴れてもブチギレても何も変わらないし。


客観視した死と主観視した死
どちらも恐怖からの諦念に終わる
遠くの死は恐怖だが、近くの死は諦念に変わる


「やっと来たか」くらいの心持でいきたいよね


いいか、死を忘れるな。 死への恐怖を適度にもっておかないと道を誤るぞ。 一度自分の欲求を整理しろ
死が怖い。 それでいい、ただ過ぎたるは及ばざるが如し


死にたいっつって死ぬこと考えることった楽しいのかもしれない
人は死のうと思ってるときが輝けるのかもしれない